女優の加藤治子さんの子供や息子や夫、またお亡くなるになった死因や現在の遺産相続について見ていきましょう。
加藤治子は子供や息子がいない理由!
加藤治子さんに「子供がいる」「息子がいる」という情報がありましたが、加藤治子さんには子供はいないです。
ドラマなどで、母親役をやることが多いからついたイメージかもしれませんね。
最初の夫の加藤道夫とは1946年に加藤治子さんが24歳の時に結婚し、31歳に1953年に死別するまで一緒でしたから子供がいると思うことは仕方ないですね。
1958年に高橋昌也さんと再婚した時は36歳でしたし、当時の医療なども考えると高齢出産で子供を妊娠し出産することは考えなかったのはないかと言われています。
そんな再婚相手の高橋昌也さんは娘が1人いました。
1947年に鶏料理屋のオーナーの藤井八千代さんとの間の長女の娘が誕生しています。
2025年01月03日現在の娘の年齢は77歳。
加藤治子さんについて
加藤治子さんは、1922年11月24日に呉服屋の娘として産まれました。
1937年には、松竹少女歌劇団に入り、映画『花つみ日記』でデビューします。
1994年~2009年には、ドラマ『浅見光彦シリーズ』で主人公・浅見光彦の母親役で出演していました。
とても可愛らしい声が特徴で、ジブリ作品で声優をつとめたこともあります!
【魔女の宅急便】では老婦人役【ハウルの動く城】ではサリマン先生役でした。
魔女の宅急便では、主人公キキに<ニシンのパイ>を届けてもらう老婦人役。
キャラクターの優しい雰囲気が、加藤さんの声から伝わってきます。
多くの作品で活躍してきた加藤さんですが、残念ながら2015年11月2日92歳で亡くなられました。
死因は心不全で自宅で亡くなりました。
テレビドラマ「寺内貫太郎一家」など、数多くの作品で優しさと強さに満ちた「日本の母」を演じてきた女優の加藤治子(かとう・はるこ)さんが2日、心不全のため死去した。92歳。葬儀・告別式は近親者で行った。
東京都生まれ。松竹少女歌劇団を経て、昭和14年に東宝映画へ移り、「花つみ日記」で映画デビュー。
16年、劇作家の加藤道夫氏らが結成した新演劇研究会に参加した。
戦後は文学座で活躍し、劇団雲の創設に参画。その後、テレビにも活躍の場を広げた。39年に始まったTBS系ドラマ「七人の孫」では、穏やかで品のある母親役が評判を呼んだ。
同「寺内貫太郎一家」をはじめ、テレビ朝日系「だいこんの花」、NHK「阿修羅のごとく」など、向田邦子ドラマに数多く出演。映画「花いちもんめ」「マルサの女2」のほか、宮崎駿監督のアニメ映画「魔女の宅急便」「ハウルの動く城」では声優も務めた。
加藤治子さんは、87歳の時にガンが見つかり余命5ヶ月と宣告されますが、放射線治療で完治。
しかし、2012年頃から体調を崩し、自宅療養を続けていたそうです。
そして、加藤さんの映画での遺作は『おとうと』でした。
『おとうと』の監督のコメントは?
山田監督が振り返る。
「撮影時はすでに80代半ばで、足も弱っておられました。主演の吉永小百合さんやスタッフも気遣っていましたが、年寄り扱いしないでほしいと迷惑がっていましたね。知的で冷めた視点を持っておられました」
数ある加藤さんの主演作の中で、山田監督が絶賛するのが舞台作「こんにちは、母さん」(01年・作・演出=永井愛)。70歳を過ぎた母親が新たな恋をし、ボランティアに夢中になる。
「古風なお母さん像とはまったく異なります。リストラなど現代の都市生活者の悲劇をベースにしながら、加藤さんは知的で目覚めた女性を演じられる稀有な方だと思いました。実は、僕はこの舞台を映画にしたくて、劇作家の永井さんとも何度も相談しました。機会を逃してしまい、残念というほかありませんが、加藤さんは立派に人生の終止符を打つことができた人ではないかしらと感じています」
『年寄り扱いをしないでほしい』というのは、『女優として最後までしっかりとそこにいたい』という加藤治子さんの思いだったのでしょうか。
加藤治子の遺産相続は誰がしたのか
加藤治子さんは2010年に乳がんの病気になり「余命5ヶ月」と言われました。
旦那も亡くなり加藤治子さんは天涯孤独です。
そんなわけで5人の知人に相続しています。
・個人事務所の取締役とその親友の2人
・加藤治子の友達2人
・遠縁の親戚1人
晩年まで仕事やプライベートで支えてくれた5人は家族のような存在だったのでしょう。
加藤治子さんが安らかに天国に行けることを祈ります。
加藤治子の若い頃の画像がかわいい
若い頃の加藤さんは、どんな雰囲気だったのでしょうか。
画像を探してみました!
画像がこちら!
芸能界デビュー直後でしょうか。
綺麗ですね!
雰囲気は変わらないですが【かわいい】というのは、間違いないようです!
加藤治子夫の結婚歴と夫
加藤治子さんは、2度結婚しています。
1人目の夫は、1964年に結婚した加藤道夫さん。
職業は、劇作家。
加藤道夫さんとは、1953年に死別。35歳でした。
加藤道夫さんの死は、自殺でした。
自殺したのは、12月22日。
その数日前の12月16日頃には、宿泊していた嵯峨沢温泉から妻である加藤治子さんに手紙を残しています。
【加藤道夫さんから妻への手紙】
こんな贅沢な宿屋にいると毎日苦労している治坊のことを考えて心苦しい。
でも、若林の家ではどうしても落着いて仕事も手につかないので、勘弁して下さい。
岩波のミュッセだけはどうしても今月中に渡してしまわねばならないので。来年は必ず小さな家をみつけて引越すから、もうすこし我慢して下さい。
来年は必ずいいことがあるように努力します。
身体の調子はいいです。
十六日の夜には帰ります。
風邪をひかないように頑張って下さい。
この手紙からは、決して後ろ向きではない言葉がならんでいます。
しかし、自殺が発見された際の遺書には「僕は幼にして罪を犯され、その記憶が、いまに忌しく、地獄の苦しみ…」と書かれており、子供の頃のつらい経験が長い年月をかけ耐え切れなくなり自殺してしまったのでしょうか。
『鬱病』ぎみであっとという声もあったそうです。
その後、悲しい経験を乗り越えた加藤治子さんは、1958年に再婚します。
2人目の夫となったのは、俳優の高橋昌也さん。
俳優座養成所を卒業後、劇団四季や文学座などを経て俳優として活躍されていました。
高橋昌也さんと加藤治子さんは、15年の結婚生活後に離婚。
【離婚の原因】は、“多忙によるすれ違い”
その後、高橋昌也さんは、再婚・再再婚をし2014年1月に呼吸不全により亡くなりました。
2人の夫とも演劇関係の方なので、仕事で知り合ったのではないでしょうか。
加藤治子さんは亡くなった今現在も過去の名作や演技で私たちを魅了してくれています。
これからも語り継がれる女優さんですね。