ファイティング原田の息子について。現在はボクシングジム経営してるの?

スポーツ選手

今回は、ファイティング原田さんについて、ご紹介したいと思います。
父が倒れた後は中学の授業が終わると米屋のバイト。
それが終わってから訪れていたボクシングジム。
波乱万丈なその人生と、勝率9割を誇る彼の強さにまつわる話は必見です。

 

ファイティング原田の息子について。

御年74歳でも真っ直ぐに伸びた拳は健在です。
左手の握り具合もやはり天下一品。

 

北島イヨさんという女性と結婚

ファイティング原田さんの家族に関する情報はかなり少なかったのですが、北島イヨさんという女性と結婚しているそうですね。
現役時代はあまり恋愛に時間を使うことはできなかったようですが、引退後は現在も夫婦仲良く過ごしているそうです。

そしてファイティング原田さんさんには、弟もいるようで、その弟もボクサーのようです。
名前は牛若丸 原田という名前で活動していて、もちろん現在は現役を引退していますが、世界王座挑戦は遂に成らなかったもののタフさでは兄(ファイティング原田)以上とかなり高い評価を得ている選手です。

上の画像は大変貴重なファイティング原田さんと妻・北島イヨさんの画像です。
妻・北島イヨさんや息子さんに関してはほとんど情報が出回っておらず、上の写真だけでも見つけられたことはラッキーだったと思います。
これだけ美人な方ならもっと情報が出てもいいのに、画像すらないのはちょっと不思議なくらいです。

 

凄まじい人生を生きながらも息子が誕生

ファイティング原田といえば、その勝率が凄いことは有名な話ですよね。
63回も試合をし56勝も勝った男…その影には並々ならない努力が隠されていました。

17歳でプロデビューをした後に無傷の13連勝を誇っていたボクサーです。

2階級制覇というのはそんじょそこらの苦労じゃなしえないものですが・・・原田さんは、なんといっても減量地獄に苦しんだ人ともいえるでしょうね。

ボクサーといえば体重管理がかなりの割合で重要視されるスポーツですが、水さえも飲めない状態だったようであしたのジョーの漫画にも登場するシーンが実際に行われていたんですね。

ファイティング原田さんは17歳でプロデビューをした後、無傷で13連勝します。
その後、2階級を制覇。
体重をコントロールするのに、水まで徹底して管理していたそうです。

過酷な減量を乗り越え勝利した後のお酒は何よりも美味しかったのではないでしょうか…。
本人はもちろんですが、周囲も大変嬉しそうな雰囲気ですよね!!

体重が増えやすい体質の原田には、デビュー当時から常に減量苦が付きまとった。
フライ級のリミット50.8kgに対し、原田の体重は普段65kgを超えていた。
試合が近づくとジムの水道は、シャワーの栓も含め、全て針金で固定され封印された。

ついうっかり水を口にしないように、との配慮であるが、原田はこの時の減量地獄を「水洗トイレの水さえ飲みたくなった」と形容している。
このため、フライ級でデビューした原田は、バンタム級、フェザー級と階級を上げていくことになった。

原田さんが目につく水道の蛇口には針金が巻かれていたようです。

65キロの体をたった50.8キロまで絞らなければならなかったなんて、まぁ大変な減量だったことが想像できます。
トイレの水さえも飲みたかったなんて…そのハングリーさが勝利を呼び込んでいたのかもしれません。
これだけ過酷なことをやっていたファイティング原田さんですが、私生活では美人妻と結婚し、1人息子を儲けているそうです。

 

現在はボクシングジム経営してるの?

御年74歳でもめちゃくちゃ元気なファイティング原田さん。
このジムに入ればあなたも将来有名なボクサーになってしまうかもしれませんね。

 

プロボクシング・世界チャンピオン会で 最高顧問に就任

原田政彦さんは引退後には解説者や後進の指導に当たっていたんですが2005年に高血圧性脳内出血で倒れて手術をされています。

その後無事回復をされています。

2010年には任期満了で日本プロボクシング協会会長を 勇退した後に、協会の顧問に就任し その後発足された、プロボクシング・世界チャンピオン会で 最高顧問に就任しています。

現在はプロボクシング・世界チャンピオン会で最高顧問を務める傍ら、自身のボクシングジムを神奈川県横浜市都筑区にオープンしています。

あれだけ強かった男に指導してもらえるなんて、これは大きなチャンスですよね。
ダイエットを目的としている女性も、ファイティング原田さんのジムに行けば、ボクシングの面白さにはまってあっという間に痩せてしまうかもしれませんね。

 

原田のボクシングジムでは貴重な経験が可能

ファイティング原田さんから学べるものはボクシングの技術だけではないはずです。
彼の人生を生き抜く強さは誰にとっても財産になること間違いありません。

プロデビューは1960年(昭和35年)2月。
プロボクシングの世界チャンピオンといわれる人間は、全8階級8人しかいなかった。

父が倒れ、中学の授業が終わると米屋のバイトに励んでいた原田少年が、笹崎ジムの練習風景をのぞき、心をひきつけられる。
「男なら、学者になるか、金持ちになるか、栄光をつかめ」。
父の言葉を思い出した中学2年生は、アルバイトでためた入会金千円を握りしめ、笹崎ジムの門をたたく。

父が倒れて心細かったはずの時に、アルバイトをしながらも、ジムの門をたたいたファイティング原田さん。
どうやって気持ちを奮い立たせたのか、困難を乗り越えて力に変えたのか…、直接お話を聞いてみたいのです。

心が乱れる時こそ冷静になれる…それがファイティング原田さんのファイティングスピリットなのです。

 

ボクサーを目指した先の栄光

中学の授業を終えると、米屋のバイト、そしてジムでの練習。
当時の月謝は5百円。
中学卒業後就職。
しかし、機械の組み立て仕事は僅か1ヶ月で辞める。
「練習時間が思うように取れない」というのが、その理由であった。

栄光を目指し、原田少年のボクサー生活が始まる。

仕事を辞めたことは大きな賭けでした。
地に落ちるか…それとも這い上がるのか…、結果ファイティング原田は賭けに勝ち、自分で自分の人生を勝ち取ることになります。

あばらが浮き出る程減量して勝利したファイティング原田さん。
頂点に上り詰めるには一体何が必要なのではないでしょうか…。

 

原田が成し遂げたもの…63回も試合をし56勝

63回も試合をし56勝・・・本当に驚きの戦績ですよね。
これだけ戦ってたったの7敗!飢えたライオンの底力・狂った風車などの呼び名にふさわしい結果です。

そして56勝の中でも、その内の23回がKOと約半数がKO勝ちのようですね。

原田政彦さんは60歳ぐらいの年齢になったときでも近所のおじいちゃんおばあちゃんに次の試合はいつ?と聞かれていたそうです。

そのぐらいのボクシングで強かったという印象を人に与えられるということは、たゆまぬ努力の成果ともいえるんでしょうね。

63回も試合をし56勝、56勝の中でも、その内の23回がKOだったファイティング原田さん。
勝率はもはや人間離れした数字を叩き出しているのですが、チャンピョンベルトを付けたファイティング原田の顔は、↑の画像のようにとても優しい表情をされているんです。
本当に強い男は本当は優しいのかもしれませんね。

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