柳生博さんのプライベートとは?
柳生博さんとは
『柳生新陰流』で知られる柳生宗厳(柳生氏)の末裔にあたる家系に誕生。
船員を目指して大学に入学するも、体調を崩して中退。
その後、役者を志して劇団俳優座の養成所へ入所。
穂積隆信との学園ドラマでの腰巾着コンビで人気を博し、
『いちばん星』で野口雨情を演じて全国的に知られる。
『平成教育委員会』の解答者や『生きもの地球紀行』のナレーションも長く担当した。
洋画吹き替えではジェームズ・スチュアートなどを担当した。1989年、大泉村西井出・西沢の森に、パブリックスペースとして、
ギャラリー・レストラン「八ヶ岳倶楽部」を開設した。
八ヶ岳倶楽部では、陶芸家を初めとした
アーティストの作品の展示販売が常時行われている。2004年4月17日からは「日本野鳥の会」の第5代会長職にあり、
同年12月12日に発足した「コウノトリファンクラブ」の初代会長も務めている。【主な出演ドラマ】
-大河ドラマ(NHK)-
竜馬がゆく(1968年) – 岡内俊太郎
勝海舟(1974年) – 佐々倉桐太郎
風と雲と虹と(1976年) – 大志坂上
草燃える(1979年) – 大蔵卿泰経
山河燃ゆ(1984年) – 白浜
いのち(1986年) – 大場甚一郎
翔ぶが如く(1990年) – 近衛忠煕
炎立つ(1993年) – 西行
八代将軍吉宗(1995年) – 吉良上野介 他【主な映画出演】
善人の条件 (1989年、松竹)
ミンボーの女 (1992年、東宝)
静かな生活 (1995年、東宝)他
こんなに大河ドラマに出てるスゴイ方だったのですね。
子供は?
柳生博さんには、2人の息子さんがいます。
長男・柳生真吾さん
【プロフィール】
1968年3月3日、東京都に生まれた。玉川大学農学部卒業。
剣豪として知られる柳生氏の末裔である。
幼いころから祖父や父・柳生博の影響で植物や動物などの自然に魅力を感じ、
その後、園芸家を志す。玉川大学農学部を卒業後、花の生産農家で3年間修行した。
2000年にNHKの園芸番組『趣味の園芸』のキャスターとなり、
それまでお年寄りのイメージが強かった番組の雰囲気を変えた。
2007年からはNHK教育テレビ『モリゾー・キッコロ 森へいこうよ!』に出演し、
八ヶ岳から季節の便りを写真で送っていた。
真吾さんの写真がこちら!
柳生博さんが始めた【八ヶ岳倶楽部】の社長をされていました。
次男・柳生宗助さん
宗助さんの写真がこちら!
笑顔が素敵ですね。
長男の死因は?
長男 真吾さんはNHK「趣味の園芸」にも出演されていたので、
ご存じの方も多いのではないでしょうか。
しかし、残念ながら2015年5月に亡くなられました。
「柳生博 長男 急死」と報道され、驚かれた方もいたと思います。
俳優の柳生博の長男で園芸家の柳生真吾(やぎゅう・しんご)氏が
2日午後11時40分、咽頭がんのため甲府市の病院で死去したことが分かった。
47歳。東京都出身。7日に家族葬を行った。玉川大学農学部卒。NHKの園芸番組「趣味の園芸」に出演したほか、
八ケ岳の麓にレストラン併設のアートギャラリー、八ケ岳倶楽部を開き、代表を務めた。
長男の死にについて、テレビ番組で柳生博さんが語っていらっしゃいます。
俳優の柳生博(78)が、テレビ朝日「徹子の部屋」(月~金曜正午)に出演。
5月に咽頭がんのため47歳で亡くなった
長男で園芸家・柳生真吾さんとの最後の会話内容を明かした。真吾さんが子供の頃に柳生一家は八ヶ岳へ移住。
大きな植木鉢を真吾さんにプレゼントした思い出を語り
「何でもいいから植えろと。そうしたら寄せ植えってものを作って。いろいろな植物を植えて。
そこから園芸の道に行ったのかもしれないですね。面白い、って」と懐かしんだ。咽頭がんのため途中からは筆談でコミュニケーションを取るようになったという柳生親子。
真吾さんとの最後の会話は「親父、ホトトギス鳴いた?」。
まだ鳴いていないことを伝えると真吾さんは「今晩あたり、鳴くかもね」と言い残したという。
柳生は「そうしたら亡くなった当日に鳴きやがってね」と寂しげにつぶやいた。
大変、おつらかったでしょうね。
最後の会話となってしまいましたが、ホトトギスのお話、とても素敵な会話ですね。
次男は?
次男の宗助さんについて調べてみました!
宗助さんは、兄 真吾さんがなくなった後、
「八ヶ岳倶楽部」の社長となりました。
奥様も含め、ご家族で働いています。
宗助さんについては、プロフィールや大学(学歴)などの
詳しい情報は出てきませんでした。
「八ヶ岳倶楽部」の社長になる前は、
シンガポールの一流企業に勤務していたそうです。
商社マンだったとか。
2016年9月放送の「爆報!THEフライデー」に出演した際には、
父 柳生博さんと宗助さんの確執が明らかになりました。
柳生博の森の後継者問題。今回は我が家が仲裁に入り、
今後について宗助さんと真剣に話したいという。
宗助さんは「色んなことが”大体で良い”という感じ」だと指摘、
一方の柳生博は「30~40年ほど”大体で良い”で続けてきた」と主張。
宗助さんはこれからの未来を見据えており、
1つ1つの面倒くさい事も行っていくことが重要だと説明。
この話を聞いた柳生博は野良仕事を覚えることを条件に、宗助さんに将来を託した。2014年2月、宗助さんはシンガポールに赴任していた。
この時、兄・真吾さんがシンガポールを訪れ、
自分の体が危ういことを理由に八ヶ岳倶楽部を手伝うよう宗助さんにお願いした。
この時、真吾さんは大雑把な性格の父とスタッフの今後に不安を抱えており、
一流企業で経験を積んできた宗助さんに森に来てもらいたいと考えていた。
そして去年、真吾さんは他界、宗助さんは兄との約束として父と対立しようとも心を鬼にして経営を引き受けた。この話は柳生博も今回初めて聞いたもので、今後は2人で森を守っていくとした。
全国から多くの人が訪れるという「八ヶ岳倶楽部」。
これからも変わらず、残って行くと良いですね。